1.復活の後で
・生前、イエスはガリラヤでまた会おうと弟子たちに言われていた。
―マタイ26:31-32「イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
・弟子たちはイエスが言われたように、ガリラヤに行き、そこで復活のイエスに出会った。
―マタイ28:16-17「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」。
・復活のイエスに出会っても疑うものがいたことは、マルコも記す。それだけ、復活と言う出来事は信じるに難しい出来事だった。
―マルコ16:14「十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」
・しかし、自分の目で復活のイエスを見たものは、もう疑うことは出来ず、イエスは「神の子だった。私たちはその証人だ」と宣教を始めた。
―使徒3:15「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、このことの証人です。」
2.イエスの宣教命令
・イエスは弟子たちに宣教を命じてから、昇天された。
―マタイ28:18-20「イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
・今、イエスは天にいて、私たちと共に生きておられる。それが私たちの信仰である。
―マルコ16:19-20「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。
・弟子たちがこの宣教命令に従って、福音を伝えていった様を記したものが使徒行伝である。
―使徒1:6-8「使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『・・・あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』」
・この復活の出来事を私たちはどのように受け止めるのか。一つの詩がある。
―「ひとりの孤独な生涯から」(作者不明、カナダ・オントリオのYMCAの掲示板にあったと言う)
「彼は、世に知られぬ小さな村のユダヤの人の家に生まれた。母親は、貧しい田舎の人であった。彼が育ったところも、世に知られぬ別の小さな村であった。彼は30才になるまで大工として働いた。それから、旅から旅の説教者として3年を過ごした。一冊の本も書かず、自分の事務所も持たず、自分の家も持っていなかった。彼は、自分の生まれた村から200マイル以上出たことはなく、偉人と言われる有名人にはつきものの「業績」を残したこともなかった。彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことがただひとつの頼りであった。彼は、旅をしてまわり、病人をいやし、足なえを歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。ほどなく、この世の権力者たちは彼に敵対しはじめ、世間もそれに同調した。彼の友人たちは、みな逃げ去った。彼は裏切られ、敵の手に渡され、裁判にかけられ、ののしられ、唾をかけられ、殴られ、引きずり回された。彼は十字架に釘づけにされ、二人の犯罪人の間に、その十字架は立てられた。彼がまさに死につつある時、処刑者たちは彼の地上における唯一の財産、すなわち彼の上着をくじで引いていた。彼が死ぬと、その死体は十字架から下ろされ、借り物の墓に横たえられた。ある友人からの、せめてものはなむけであった。長い19の世紀が過ぎていった。今日、彼は、人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。「かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王様たちの影響力のすべてを合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響、人々のいのちに与えた影響の偉大さにおいて、あの『ひとりの孤独な生涯』には到底及びもつかなかった。」と言っても決して誤りではないだろう。」